きゃんどる洞窟

すらりぬらりとイデアさん[idea]、手記綴ら...

302号室の死体








遠くで救急車のサイレンが聞こえた。


咄嗟にそちらのほうへ顔を向けそうになるが、直ぐに、目の前に立つ潮風で錆びた時刻表に焦点を戻す。


6:42。

夥しい程並ぶどうでもいい数字の羅列から、その三つを頭に書き留めると、男は横にいた女にやっと、唇だけの笑顔を見せた。

「間に合うみたいだ」


上着を羽織るでもないこの時期に、女の小刻みに震えているのが、男には左頬からでもわかった。

「これは黄色よ」

「いいじゃない、黄色」

「そう…でも、違うわ。これだとしっくりこないもの」

そう言って女は、まだ新品の水着を、近くに置かれていたゴミ箱に投げ捨てた。


「頼むよ、要らないんだったら最初から盗らないでくれ」

「嫌よそんなの。一度手にしてみないとわからないもの。それに…」

「それにその時のでは、やっぱり駄目なのよ。…ちょっと」

女は、辺りに目を配らせながら、忙しく水着を拾う男をせせら笑った。

けれど女からは何も聞こえなかった。


「ねぇ、貴方はどうしてそう…」

「それは、半分は僕がそういう人間だからさ。もう半分は、君がそうして欲しいと思ったからだよ」

「どうして?」



「私、先に戻るわ」

引いていく白い泡飛沫を横目で見ていた女は、一人エレベーターに向かった。

男は後ろに、女の去ってゆく足音の聞こえなくなるのがわかると、誰もいない浜辺に向かって小さな咳をした。

そうして一瞬、このまま裸になって、静かな青い水溜りの中に飛び込もうかとも思ったが、自室のソファに横たわる、あの覚えの無い死体の影が浮かんだので、実際、男は瞼を一度閉じただけであった。

そのまま右ポケットの、302と彫られた四角い鍵を転がしているうちに、この男の小さな胸奥には、言いようのない靄がかかり始めてきた。

男は急ぎ足下の黄色い水着が入った紙袋を拾い上げると、迫るだけの波音から逃げるように、両扉の前で何度も階数表示を見上げる女のもとへと駆けていくのだった。










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